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関ヶ原の戦いで功績をあげた井伊直政は、1601年に徳川家康から石田三成の旧領十八万石を与えられました。当初は佐和山城に入城しましたが、佐和山城は落城した惨状のままで、とても使えたものではなく、また修復しようにも中世の山城で交通が不便なため、新たな城を琵琶湖畔の磯山に築城しようとしました。 しかし、直政は合戦時の鉄砲傷が原因で翌年に病没し、家督を継いだ嫡男の直継(のちの直勝)が築城にあたりました。しかし、直勝はまだ幼少であったので、重臣の合議で計画を進めることになり、家老の木俣守勝の進言により、直勝は、琵琶湖北東岸の金亀山を最適地として1603年に築城が開始されました。 彦根は交通の要衝で、また1603年にはまだ大坂には歴然たる権力を保持している豊臣氏がおり、それに加えて他の豊臣恩顧の西国大名に対して江戸への防衛ラインという戦略的な地でもありました。そのため家康は、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の七ヶ国十二大名に築城への協力を命じるなど、幕府として総力をあげた大規模な事業となりました。 天守閣は二年ほどで完成しましたが、その後1616年から表御前の造営をはじめとする城郭改造や 外郭の拡張整備等の第二期の工事を行い、全体が完成したのは1622年の三代目直孝の時代でした。 天守閣は近くの京極高次の大津の城から移されたと伝えられ、また西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城から、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から、太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように、各所の城から運び込んで移築されたといわれています。 井伊氏はこの地を与えられた際には十五万石の石高でしたが、その後大坂の陣の戦功で五万石加増、さらに寛永1633年に十万石の加増、別に預け高と称する五万石があったので三十五万石の大大名となりました。しかし1860年3月3日に十三代藩主で大老職にあった井伊直弼が桜田門外で水戸藩士などに襲撃斬殺されたため幕府としても仕方なく十万石の減封処分としたために幕末には二十五万石の石高でした。 新政府の廃城令によって多くの城が取り壊され、姿を消していくなかで、今日になってその雄姿を見ることのできるのは、1878年(明治11年)の廃城撤去の寸前に大隈重信が視察し、その名城の消失を惜しみ、明治天皇にその旨を奏上したことにありました。その結果廃城を免れ、現在の4国宝(姫路城、松本城、犬山城、彦根城)のひとつとして残っています。来年は彦根城築城400年を迎え、様々な催し物が行われます。この機会に是非ともお越しください。 |
![]() 彦根駅からお城にむっかって歩くと 二の丸佐和口多聞櫓入り口に到着します。 |
![]() 二の丸佐和口多聞櫓を抜けて、表門橋を渡ります |
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![]() 天秤櫓です。 この櫓は豊臣秀吉の長浜城から移築したといわれています。 空濠に面して建てられ、鐘の丸とは廊下橋で結ばれています |
![]() 廊下橋を渡って天秤櫓に入ります |
![]() 太鼓門櫓です。 石田三成の佐和山城から移築されたといわれています。 |
![]() 京極高次が築いた大津城から移築されたといわれる 三重の天守がそびえています |
![]() 昭和43年に水戸市から梅が送られ、 桜田門外の変以降途絶えていた水戸市との交流が再開されました (現在は姉妹都市です) |
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